脳梅毒受験日記 最終章―合格/崩壊―
合格発表の日、東京は雨だった。
朝から空気が湿っている。
駅へ向かう人々の顔は灰色で、誰も他人を見ていない。
私は早く目が覚めた。
眠れなかったわけではない。
むしろ、異様に深く眠った。
長い運動のあと、身体だけが先に諦めたような眠りだった。
机の上には、最後まで使っていた参考書が積まれている。
青チャート。
鉄壁。
東大過去問。
付箋は剥がれ、角は潰れ、表紙は汗で柔らかくなっている。
それらを見ても、もう感情は動かなかった。
ここ数ヶ月、私はほとんど機械だった。
起きる。
読む。
解く。
眠る。
その反復。
途中で何度も、別の回路が開きかけた。
女。
ホテル。
メッセージ。
夜の街。
過去の映像。
Absolute disorder。
あの言葉は最後まで消えなかった。
だが私は、それを消そうとはしなかった。
消えないものを無理に消そうとすると、逆に回路が強化される。
それはもう知っていた。
だから、横に置いたまま勉強した。
崩壊を抱えたまま、秩序へ向かった。
それだけだった。
スマートフォンを見る。
まだ時間ではない。
私は水を飲む。
静かな部屋だった。
昔なら、この静けさに耐えられなかった。
音が必要だった。
刺激が必要だった。
女の声か、酒か、射精か、何か。
沈黙だけの空間にいると、自分が空洞になっていく気がした。
だが今は違う。
空洞のまま座っていられる。
それだけで、十分変化していた。
窓の外を見る。
雨。
世界は何も変わっていない。
誰かが死に、
誰かが売り、
誰かが買い、
誰かが壊れ、
誰かが勉強している。
その反復。
自分だけが特別なわけではない。
むしろ、自分も大量の交換可能な人間の一人に過ぎない。
その感覚が、妙に落ち着いた。
時間になる。
私は画面を開く。
受験番号を入力する。
一瞬、指が止まる。
ここで人生が変わる、とは思わなかった。
そんな年齢ではもうない。
合格しても、世界は急に輝かない。
借金が消えるわけでもない。
失われた六年間が戻るわけでもない。
ここねも戻らない。
過去の女たちも戻らない。
それでも、入力する。
画面が切り替わる。
少し遅れて、番号が表示される。
私は、しばらく理解できなかった。
雨の音だけが聞こえている。
そして数秒後、自分の番号を見つける。
合格。文科一類。主席。
その文字を見ても、涙は出なかった。
歓喜もなかった。
最初に来た感情は、静かな空白だった。
ああ、本当に終わったのか。
いや、違う。
終わったのではない。
戻れなくなったのだ。
私はようやく理解する。
この受験は、成功のためではなかった。
回路を切断するための儀式だった。
317回。
167人。
1190万9300円。
その運動を、別方向へ流し替えるための装置。
東大とは、私にとって大学ではなかった。
巨大な変換機だった。
性欲。
破壊衝動。
依存。
執着。
それらを、点数と文章へ変える機械。
私は机に座る。何もすることがない。
長いあいだ、合格だけを考えていた。
だから、その先が空白になっている。
壁の絵を見る。静かにそこにある。
壊れたものを、壊れたまま保存したような絵。
私は少し笑う。
結局、disorderは消えなかった。ただ、形を変えただけだった。
それでよかったのかもしれない。完全に治る人間など、たぶん存しない。
あるのは、崩壊の流し先だけだ。
酒へ流すか。
女へ流すか。
賭博へ流すか。
勉強へ流すか。
文章へ流すか。
私はたまたま、最後の二つへ流した。
それだけの話だった。外ではまだ雨が降っている。
私はノートを開く。
受験が終わった今、初めて本当に書ける気がした。
タイトルを書く。脳梅毒受験日記。
その下に、小さく副題を書く。
――ある文一主席合格者の軌跡。
そして、最後の一行をゆっくり書いた。
――Absolute disorder was never cured.
――It merely learned how to speak.
Absolute disorder は、治癒したのではない。
ただ、言葉を覚えただけだった。




