名人伝
中島敦
若い頃より何かの分野で最高峰まで登りつめたいと激しく欲した。さてどの分野で勝負するのか試行錯誤してるうちに40年の年月が過ぎてしまった。
弓矢の世界で天下を獲った男が、晩年になり弓と矢、それらがどのような役割を持つのかさえ忘れてしまったという名人伝のくだりは若い自分の私にはは今一つ解りかねた点ではあった。
一つの分野の事象ないし対象にとことん集中して朝から晩までハマる→最初見えなかった奥深い風景が徐々に見えてくるようになる→対象が身体と精神、脳味噌の襞にまで浸透、シンクロし違和感がなくなり手足のように身体の一細胞の如く同化する(その対象に対して時たま生理的に不快感を抱いたり揺さぶられているうちは、まだまだ…)→やがてその対象に対して意識するということ自体がなくなり無関心になってしまう→最後にきれいさっぱり完全忘却に至るという段階的プロセスが体感的に朧げながら分かってきたのは随分と分野違いの経験を蓄積してきた後であった。言語で例えれば、英語、日本語、北京語などの垣根を全く意識せずに只伝えるということだけに焦点を当て自然に話しが出来る境地というような…
早逝した作家がそのような感覚を短編小説で表現しぐいぐいとたぐり寄せていった筆力とは一体どのような実人生や読書の蓄積を通じて得られたものであったのか。即ち中国古典文学への長年の深い耽溺こそにヒントがあると思い込んでいた。
巨匠呉昌碩(ゴ ショウセキ)が50代に入ってから本格的に絵を描き始めたとのエピソードはまるでサウナ室から水風呂に飛び込んだ際に、全身の血液がまるで逆流するかのような興奮をもたらし、ほんのつかの間だけ「まだまだこれからだ。」と私を叱咤激励したのはまだ記憶に新しい。